戦争の話はうちの爺様からよくきいた
まあ、戦前と戦時中が色々ごっちゃになってるけど
うちの爺様は2歳で父親が死に、15で母親が死に、兄貴がいたらしいが、よくわからないが社会党の議員の秘書になって若くして死んだらしい
ずいぶん頭が良かった人らしい
大正の話だ
爺の兄貴はとんでもない秀才で貧乏なのに私の出身地の村が金出してくれて、尋常なんとか学校より上にいかせて貰えたらしい
それから社会党の議員の秘書になったらしい
多分、さらに上に行くにはあんまり出自に関係なさそうな社会党が良かっんだろう
大正はようやく原敬が平民宰相なんて呼ばれてた時代だから、そういう選択をしたのかなと
うちの爺様も賢かったと同級生の婆、(爺様の同級生であり孫は私の同級生)は言っていた
もう18年前位前に死んだ爺様を多少褒めてやろうと書いてる
まあ好奇心が強い人だった
兵役で満州に行ってた時に、北京語喋れるようになって帰ってきたたくらいだから
ただ、はっきり言うとひとから嫌われて当然の爺様だった
まあ、好き嫌いとかは置いといて、聞く話は面白かった
うちの爺様は15で父親、母親、兄貴もいなくなった
そのときはもう昭和だったみたいだ
むかしは15なら成人したも同じだから(それとも成人だったのかな?)、つてをたどって東京のワイシャツ工場に就職したらいし
丁稚奉公と爺様は言ってた
だから歳をとっても自分でボタンつけをしてた
手先は器用だったと思う
深川の工場だったらしいが、その工場の若旦那がある日、飯を食わせてやると言って、どっかの食堂に連れて行ってくれたらしい
初めてカレーを食べたと言ってた
こんな美味いもんが世の中にあるんだと、感激したって言ってた
好きな物を好きなだけ食えと若旦那に言われてたから、思わず言ったのが「お代わり」
若旦那は「やっぱり田舎もんは、田舎もんだねぇ」と言ってからかったそうだ
私の母は、その話を聞いて怒っていた
その話を聞いてから、もう爺様が死んでからだけど、落語を聞くようになってわかった
うちの爺様は遠くから親戚が来ると、地元の言葉は使わなかった
漁師をやってたこともあるので、ふだんは声の大きな漁師言葉を使ってたんだけど、遠くから親戚が来ると、違う言葉だった
「あたしうぁね、昔ね、ふかぐぁにね、住んでましてね」
とにかく細いこえだった
標準語のように小さい頃は聞こえた
でも落語を聞くようになってから気づいた
昔ながらの江戸の商家の話し方だったんだって
うちの爺様にしてみれば、それが丁寧な言葉であり、標準語のかわりだったんだな
長くなるなと思うから、今日はここで終わりにします
まだ、戦争にはいってないですね。。